これでもまじめに働いています in フランス

フランスのアルプス近くに住むのフォークリフト作業員 四捨五入30才が過ごす日常話 短編のフィクション話です。ハルヒの以前の行いはこちら https://note.com/kei_mp/n/nd24aaf9e43bd?magazine_key=ma8e85b751d3a

バティスト、ユースへ行く:脚立の下で会いましょう

サムはハルヒから離れない。サムはオレの犬でオレとハルヒは900㎞離れた街に住んでいる。

今のところ週末ごとに行き来している。サムと遠距離交際状態。

ハルヒはサムの添え物だ。


先々週、オレは約束をとらなかった。会うとやらかしてしまいそうだったから。

 
先月ハルヒはうちに泊まり込んでいた。

三日間部屋にこもって頼まれものを仕上げた。ろくに飲まず、何も食べず。力尽きたら寝て、起きたら続けて、誰にも会わずサムの姿もガチ無視した。オレはハナからいない存在だった。

「ありがとう、世話になったから、一番に見て」

作品ができたと部屋から出てきた時、中国の墨の匂いがハルヒからアパートの中に漂った。その奥から確かに感じられたハルヒの香り。

それ以来まともに顔が見られない。
ハルヒは兄貴の彼女だ。

ハルヒは別れたと口では言う。兄貴はまだ踏ん切りがついていない。ハルヒだって口を開けばロバン、ロバン。まだ泊まりがけで会っている。

痴話喧嘩だ。よりを戻す日は近い。そこに手を出す趣味なんかない。義弟の距離で充分だ。

それでもハルヒの香りがまとわりつく。使った寝室が片付けられない。寝具が替えられない。ひとり暮らしのくせに毎晩オレはソファーで寝ている。

あの翌週、オレはサムを諦めた。
会う約束をとらなかった。ハルヒからも連絡はなかった。

その次の週もスルーした。
サムを取るか兄貴を取るかと言われたら、迷わずハルヒを取る自分がいたから。

 翌週末、アパートではなくお互いの間の町でサムに会わせてくれと連絡した。観光地アンシー。オレにとっっては普通の町。けれど風光明媚で花のあふれる町として知られている。観光客の多い町。

自分のアパートでは歯止めがきかない。ハルヒの泊まるユースでも自制が無理な自信がある。
日帰りでサムに会うつもりだった。

返ってきたメッセージはそっけなかった。
「ごめん。都合悪い。来週末なら大丈夫」
 
というわけで今日アンシーでハルヒと会う。

夜明け前に起き出して三時間車を走らせた。スマホは一切見てなかった。腕時計はアナログの時代もの。
駅についてからストを知った。

「行けない」
表向きは電気系統の故障。けれど組合のデモ行為と見る識者もいた。朝から電車が一切動かない。TGVもローカルも全てがストップ。復旧の見込みは不明。
 「バス満席、レンタカーとれなかった、手段なし」

「そっちまで行く」
見てすぐ返信したけれど既読がつかない。
さらにユースまで三時間、昼過ぎにたどりつくと玄関先でサムが飛びついてきた。こっちの胸にまで手をかけてきて、尻尾で空気をビンタする。ハルヒはいない。 

サムが誘導した先はユースの裏庭だった。

裏口前に脚立が据えられ、その上にハルヒがいた。イアンと扉を直している。イアンは脚立の下にいて、扉の下に雑誌を突っ込み扉の高さを無理やり平行にしようとしている。脚立に乗った後ろ姿が思ったより丸い。

「この蝶つがいカッコイイよね」
ハルヒは扉の上を手で探る。
「え、田舎すぎじゃないか」
イアンが見上げながら答える。
ふたりともこっちには気づかない。
 
ハルヒが上から言う。
「傾斜計貸して」
「そんなものがいちいちユースにあると思うなよ」
「ボールペン屋にもなかったな、パタフィックスない? 粘土みたいなの、 ボンドでもいい。それと糸、糸か紐。上からこうひっかけて、垂らして垂直かどうか見る」
イアンが工具箱から紐を手渡した。
「ありがとう」
ハルヒが右手の薬指から指輪を外す。ひもを通してぶら下げられるようにする。指輪?

紐を20センチくらい上から垂らしてスマホケースの角で垂直か確認している。
メッセージ送ろうかと思った時にイアンがS字金具を探し出した。
 ハルヒが扉の上に引っかける。指輪のついた紐を吊るす。扉が傾斜していないか確かめる。
指輪?

「あと二冊足して。あ、上がりすぎた。薄いの抜いて、抜きすぎ! 半分で」
「裏口ぐらいでこだわるなよ、どうせ何億年もすればズレるんだから」
「何億年保つ扉っていいじゃん」
「木の寿命がどれだけあると思ってるんだ」

ふたりは作業に忙しい。
今気になるのは指輪だろう。どうしてオレはハルヒの腰を見てるんだ。

視線を何とか外してサムを見下ろした。
「お前のメシチェックしてくる。ハルヒをよろしく」
言いながらもう一度後ろ姿を見納める。脚立の上に目を見開いて振り向くハルヒがいた。

「バティスト!?」

思いの外素早く脚立から飛び降りた。走り方は相変わらずモタモタ重い。それでもハルヒなりに寄ってきて俺にとびついた。

「うれしい、久しぶり、よかった、今日も会えないかと思ったよ」


それはそれで楽しそうだが―。そんなひがみはハルヒの重みで消し飛んだ。
「会う気になれば会えるって言ったのはハルヒだろ」
思わず口から言葉が出る。
「だってバスもいっぱいでレンタカーも取れなかったし」
腕の中にハルヒを抱え、ふとサムを見る。

地面に座って興味なさげにこっちを眺めている。
ハグの一回や二回で目くじら立ててたらこのご主人、やってられませんわ、という顔をしている。

「どうしてた? 元気? 先週ごめんね、先週にしておけばよかったと思ってたんだ。ちょっと都合が悪かっただけなんだけど」
少し体を離してこちらを見上げながらハルヒが言う。ハルヒの腰に回した手はそのままにしておく。柔らかい。
「ハルヒらしくない言い方だな」
「会いたかったもん」
ハルヒが胸に頭を押しつける。
え?
 
手がボクのシャツの胸のあたりに触れ、そのまま首に回される。
どうした、自分はどうするべきだ。
胸の中からハルヒが囁いた。
「サム見て」

サムは相変わらず地面にぺったり座ったままこちらを所在なげに見上げている。

それならとこっちはハルヒの体を引き寄せてみる。
サムの足に力が入った。今にも動けるポジションにつく。
「身構えよった」

 ハルヒが背伸びをする。鼻先がこっちの首元に当たる。身長差でそこまでしか届かない。
サムはとりあえず地面に座った体制に戻る。

オレはハルヒに向かって身をかがめた。サムから見えないように角度を変えてハルヒの顎に手をかける。顔を近づける。その瞬間肩に衝撃が走った。サムが飛びかかっている。バランスが崩れてハルヒから手が離れる、膝をつく。牙こそむかないがサムは唸る。
ハルヒがあわててサムを制止した。

サムはオレをにらみながら離れた。ハルヒは大丈夫? ごめんなさいと口にする。

「オレからは仕掛けられないってことかよ」
地面に転がってくさるオレの脇にハルヒはしゃがみ、サムを押さたまま肩を揺らす。笑ってる場合かよ。

脚立にもたれていたイアンが言った。
「君ら他所でやってくれる?」

大画仙紙の書

 工場勤務の終わるのが16時半、そこからまっすぐバスで帰ってユースに駆け込む。受付でサムと感動の再会を果たし、サム待望の散歩がはじまる。

 サムはみるからに正しい雑種犬で、ひいき目に見ればどこかでボクサーかグレイハウンド系が入った気配の残る犬、距離を置いて言えば山と野を走り回って生まれてきたワンコだ。

 ユースの階段をサムが駆けおりた時、地図を握った東洋人とぶっつかりそうになった。キャスターを引いて大ぶりの手提げ袋を持ち、手提げバックからは白い長い筒が飛びだしている。大荷物だ。すみません、フランス語で言って気がついた。
「浜平さんやん」
 実家京都のはるか遠く、洛中にある袋物の中堅店員さんだった。

 やまやの浜平さんと会うのは一年半ぶり、ごぶさたしてます、フランス一地方の町角、夕方の人通りの多い中で日本式のお辞儀を交わした。

 うちの旦那が春日お嬢さんに一枚書いてもらいたいと言うて聞かへんのです。先週明良さんに頼んで伺う旨伝えてもらたんですが、聞いてはります?

 日本のおじいちゃんに? 
 すんません。先週バタバタしてたんです、寝耳に水ですわとは言えずハイと笑顔で答える。
 書く? 書くって、やまやさんに頼まれる書くことって書(しょ)か? 書道の書、一年以上筆なんて触ってないよ、持ってきてないよ、墨ないよ、紙もない、こんな僻地で手に入らない。バックパッカーには硯もない。水彩の筆で一番でっかいのはどんなサイズだい!? この町に中華街ないんだけど。

 あいにく物が揃いませんのでと言いかけたら「お道具はご実家のお内儀さんから預かってます」ときた。荷物の中だ。
 とりあえずユースの中で話しませんかと階段を戻りかける。リードの先のサムが動かない。ボクは散歩に行くのです、とまっすぐ私を見つめている。
 そうだ君はそういうやつだ。

 すみません、ちゃちゃっと回ってきますので中で待っててもらえますか、言おうとしたがキャスタ持ちの大荷物がある。
「もう少し行ったところにスロープがあってそこからなら階段なしで上がれます。行きましょ」
 道なりに同行しようとした。リードの向こうのサムが動かない。サムの好きな肉屋さんは反対方向だ。三日に一回は骨がもらえる肉屋さん。今日がそろそろその三日目。私はサムのリードを手すりに二回まわして引っ掛ける。
「すぐ戻るから」

 放置一択。クンクン聞こえるが知らん。知らん知らん、耳をふさごうとするとユースの二階の窓が開いた。営繕スタッフのイアンが顔を出した。
「サム?」
 階段の下にいる私たちに気がついた。

 イアンは荷物を階段で上げるのを手伝ってくれ、サムを散歩に連れていってくれた。サムは尻尾を振ってついていく。
 サムは飼い主のバティストと私を天秤にかけたのではなく、このユースに住むと決めてここに来たのだろう。

 ユースのロビーで荷物を広げる。書道道具一式、そして筒の中から画仙紙。たいがいの大きさに見える。ここでは広げない。それから黄楊(つげ)、黒柿、桜、椿、茶。根付けの素材。重くてこんなに安定しない素材、本当にお手を煩わせて申し訳ございません、ありがとうございますとしか言えない。「いや、なんか軽かったんですよ」と言ってくれる。中に一目でおじいちゃんの作とわかる根付けも入っていた。


「それからお嬢さんのところに伺うと聞いた人らがあれやこれやと」
 箱の中からワサビ味のおにぎりせんべい、割れせん、羊羹各種、錦市場の鰹節...。
「どうもありがとうございます。吉村さん、木之内さん、葛西さん皆様のお心遣いありがたくお受けします。浜平さんもこんなところまでお運びいただき、本当にありがとうございます」
 さすがお嬢さんや、贈り主を全部当てなさる。
 わーい、浜平さんに褒められた。

 やまやのお店(たな)は、私の祖父と親しく、家としてのつきあいは祖父の祖父以前からと聞いている。
 私が実家にいた頃は、やまやさんから呼び立てがあったら学校から帰り次第店まで行かされたものだった。時にはやまやさんが「学校なんかいらん、ウチの店手伝え」言い出したこともある。独自の堅い持論のある、堪え性のない旦那さんや。

 で、一体何を書いたらいいんですか?
 ここまでやっていただいて、手ぶらでは帰せない。
 堪え性のないやまやさんも気になる。ちゃちゃっと書く、そう思って聞くと浜平さんがおずおずと言い出した。

「才原の大宮司さんになんですわ」
 あ。
「大宮司さんが、春日さんにあれを、としか言わはらへんのですわ、わかりはりますか?」

 大宮司さんはやまやさんの実のお父さん。

 袋物屋の跡継ぎになる関係で旦那さんは幼少時から才原さんの神社を離れたけれど、実父さんとはずっとつかず離れずの関係を保ってはる。やまやさんの無茶ぶりに周りが困り果てた時、ストッパーとして頼む先はかならず大宮司さん。とはいえ大宮司さんもやまやさん以上に待てない人で、息子さん以上に横紙を破るご尊父で、おまけ弁が立つ上に気合も違う。下手に機嫌を損ねたらこっちまで大怪我をすると言われている。そこで板挟みになりながら交渉する役はなぜか毎度弱小土産物屋の小娘、私に回ってきていた。

  

 春日さんにあれを、

  

 またそんなん言い出して。大宮司さん、おいくつ? 白寿?

 私が固まっていると肩に湿った鼻先が乗った。
 サムがいつの間にか戻っていた。その横でイアンが広げた木片を覗いている。

  

「三日ください」
 いや、その前に、紙を広げられる場所も見つけないと。
 ユース一部屋借り切り?シーズンだぞ、それもいきなり。今週末までに? できるかよ。民泊? ホテル? 墨を扱うのに。それも私が。

「浜平さんはいつまでこっちにいてはるんですか?」
「来週金曜のパリ発で取ってるけど、早よ戻れたら戻ってこい言われてます」
「また殺生な。で今日はこれからどうしはるんです? どちらに泊まりです?」
「ジュネーブに従兄がいるんでそこに行くことになってます。電車で行けるみたいやし」
「今晩ですか?」
「できたら」

「お構いなしで申し訳ないのですが、慣れないジュネーブに遅く着くのも心配なので早々ではありますが駅までお送りします。行きながら話させてください」

 荷をまとめてとりあえず受付に預けて出ようとするとイアンが事情を聞いてきた。浜平さんがジュネーブ行くから駅まで送ると言うとてきぱき時間を調べてくれた。時間に余裕はあるけれど車で送ると申し出てくれる。話があるから後ろで日本語オンリーになると断るとイアンがサムに話しかけた。
「俺らはフランス語だもんな」

  
 荷物はとりあえず受付け内で預かってもらい、私たちは車に乗った。サムはすんなりと助手席に座る。

  

 私はふと思った。イアンに聞いた。

「三日間サムを預かってもらうことってできる?」

 その間にこの辺でホテルか民泊をとって、

「明日の朝からバカンスで南の島、マルティニックに行くんだ」

 世の中そんなに甘くない。

  

 加えてユースは慈善事業でもない。

 駅から戻ってまずサムの本当の飼い主、バティストに電話を入れた。

「三日間音信不通になる。サムを預かってほしい」
「預かれるもんなら何日でも預かる。返す気もない」
あ。

 散歩と仕事以外サムは私から離れない。飼い主の元に戻ることすら拒否している。
「なんでそこを忘れられるんだ」
 バティストに救いようもない奴とレッテルを貼られた。

 自分の頭の中が混乱していく。やっぱりサムを三日間ユースに預かってもらって、金土日でやる。金曜日は今週休みだっけ? 違ったら入れ替えてもらう。前の日の木曜日の夜からとりかかる。籠って月曜朝までに仕上げる。才原さんに書く。でもどこで書く?

「なにがあったんだ?」
 バティストとの電話がまだつながっていることまで忘れていた。私は問われるがまま答える。

「三日間籠れる場所を探している。
 水回りさえあればいい。井戸でもいい。多少汚しても大丈夫なとこ。塗料がつくんだ」
「塗料って、落ちないやつか? ペンキとか?」
「墨。中国インクっていうの? できるだけ汚さないようにはする、でも、その辺は私だから」
「ウチを使えば? このアパート黒くなったら塗り直せばいい。三年住めば塗り直しは大家持ちだと。そういう法になっている」
「何なのその借り手に優しい法律」
「法律の怖いところは自分が出る直前になって変わることだ」

 梯子外しはどこにでもあるんだ。

「ありがたいけど、人と会わない場所を探してるんだ。誰も見ないところ」
 鶴の恩返しかよ。でもこの国では鶴が機を織るとは誰も知らない。
 どうしよう。貸し庭の小屋? イアンが持ってたみたいな。今もある? イアンもう帰った? ちょっと待て、イアンのアパート空いてる?

 バティストの声がした。

「ウチに来いよ。三日くらいならオレ、兄貴のー、ジョン=マチスのとこでも行ってくる」
「クローディアがいいなら」
「誰?」
「クローディア。ジョン=マチスの彼女」
「え、知らなかった。あいつ、いつ行ってもひとりだったから」
「突然行っても!? あれ、あのふたりどうなったのかな。私ヤバいコト言っちゃった!?」
「行く前に都合くらいは確認してるけど」

 電話をはさんでふたりしてうろたえた。

 バティストは言う。
「じゃあ三日くらいドイツかどっか行ってくる。その間好きに使いなよ」
「…サム連れていけないよね」
「連れていけるもんなら何日でも連れて行く。返す気もない」

 やっぱサムをユースに預けて、民泊かホテル、墨で汚れたらー。

「ハルヒを放っておく、散歩はオレが引っ張り出す、これは毎回やってるから問題ない。それ以外の時はオレは外出する。サムの散歩にだけ通ってやる」
「バティストが大変だよ」
「どうにかなる」
 慎重派の権化バティストに何があった? 常識の通用しないサムの行いの連続に、やっと慣れてきたというのだろうか。

 これまでは籠って書く先は何軒もあった。実家付近、親戚宅離れ、物置小屋。虫さえ来なければ書けた。それに確かに犬の散歩はなかった。
 どうにかなるし、どうにかする。確かに今まで何とかなっては来た。

「よそに泊まるっていうより、ただ変な私を放っておいてくれるだけでいいんだ。ガチ無視で、声かけないでいてくれればいい。でもバティストはそんなのにアパート使わせる? 気持ち悪いやん、あかんわ、他探す」
「変はハルヒの初期値だろ。寝室使えよ、そこならオレも通らなくても済むし。いざとなったら俺がソファー使えばいい」
「ベット部屋からだしちゃえば」
「あのソファーは広げられるんだって」

 ちょっと考える。これが一番近道っぽい。

「三日でやってみる。なんとかする。お礼もする」
「礼って?」
「変なハルヒを置く手間賃。宿泊費もはらう」
「修復費を払ってくれるだけでいい」

 木曜日の夜からバティストのところに籠らせてもらった。

 着いてすぐベットのリネンは外す。墨まみれにすることはわかっていたから。
  防水シーツとコットンシーツは自分で持ちこんだ。色は黒。墨をつけても大丈夫! こんな色のシーツがあるとは知らなかった。
 シャワーを使わせてもらい、それから一言も口をきかず、何も食べず、サムも寄せず籠った。
 墨汁がないのは辛かった。大宮司さんだって筆ペン普段使いしてたのに。大筆で書くんやで。墨汁大二本でも少ないのに。

 それ以前に信じたくない。才原さんが書かせるなんて。才原さんの冗談だよね。

 私が寝室に籠っている間、サムはいい子だったと後から聞いた。

 同じアパートの中、私の足音を聞くたびにサムは空に鼻を向け切なげだったらしい。それでも声のひとつもたてなかった。

 ただ、外では大変だったという。

 散歩先の公園で穴を掘りつづけ花を噛みちぎり唸りつづけて吠えまくる。

 バティストは躾のできない舐められた飼い主とみなされたと、全部後から聞かされた。

 縦が私の身長、幅が私の身長の二倍くらいある画仙紙に空間をはかりながら六文字、二行で書く。日曜日の夜にやっとできた。部屋から出てバティストを探した。

 ありがとう、見る? バティストのおかげで書けた、本当にありがとうね。ちょっとスイスの人に電話する、部屋に置いてあるから覗いていいよ、ただそのまんまにしておいて、 まだ乾いてないから触らんとってね、垂れたら泣くで。

 部屋を覗いたバティストが言った。

「どれ?」
「どれって?」
「ハルヒが書いたっての、どこに置いたの?」
「どこって、部屋の真ん中、ベットの手前。ベットより大きい紙だよ、なんで」

 浜平さんとの電話を切って、バティストの後ろから部屋を覗いた。床には新聞紙しかなかった。

 硯や墨はある。筆はまだ濡れている。横文字の新聞紙には書いた文字の染みた跡が残っていた。窓は換気のために上を3㎝ほど細く開けてあるだけ。窓の幅自体も狭い。45センチ幅くらいの縦に大きい二重窓が横に三枚。上3㎝の隙間のみで固定してある。
 今書いた紙がない。
 私は夢を見ていたのか。呆然とする。バティストだって訳が分からないという顔をしていた。

 座りこんでいるとスマホが電話アプリを着信した。実家の母だった。
「才原さんが生まれる前にいてた場所に戻っていかはった」

 30分くらいして兄経由で一枚の写真がきた。

 才原さんの和室には金属のベットが置かれていた。そのベットの足元にまだ墨の濡れている150cmx360cmの画仙紙。縦書きの私の手跡。

 

東風吹かば

                    春

「イラチにも程があるやろ」才原さんのお孫さんが言わはった。「まだ乾いてもおらへんし」

 兄は主張する。
 絶対棺に入れさせへん。神社の境内に飾らしたる。

 私は言うしかない。
 北野の天神さんから苦情来るで。
 才原さんやから約束通り入れはるよ。無理せんとき。兄ちゃんの時も書いたるわ。サザエさん 陽、くらいでええ?
「さかな咥えて走ってるとこまで描いてくれ」反射で言ってからふと口調が早くなった。

「まさか春日、大宮司さんとそのノリで辞世の句決めたんちゃうやろな」
「やまやさんの産みのお母さんのご葬儀の時、才原さんが言いだしはってん」
「ちょっと待て、ワシの辞世の句、まだ決まってないからな。決まったら教えたる。サザエさんちゃうからな」兄はなぜか焦っている。
「西原大宮司、99歳、大往生やん、最期の最期にやらはるな」
 
 子供の頃、やまやの座敷で大喧嘩したことをなんとなく思い出した。まだ私が幼稚園に入る前くらいだった。本気で怒ってたのは私だけだろう。やまやさんと才原さん、それからお祖母ちゃんでしゃべってた。

「春日ちゃんウチのひ孫の嫁になりいな」
「才原さん、ごめんやで。私大きくなったらおじいちゃんのお嫁さんになるんよ」
「おじいちゃんはもうおばあちゃんいてるからあかんわ。ウチのひ孫んとこおいで」
「いやや春日おじいちゃんのお嫁さんになるんや」
「えらい恋敵現れたわ。おばあちゃんもがんばらな」

「明良さんがええんやったらうちでもええやん」
「いや才原のウチにこい」
「あかん、春日はおじいちゃんのお嫁さんになるんよ、才原さんとこもやまやさんもいかへん、才原さんとこなんか絶対いかへんー」